・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2024年 8月  14日(水) 更新

「喫茶去(キッサコ)」禅の言葉のようです。急がず、焦らずに「まあ一服

盂蘭盆・・・
昨日8月13日は迎え盆になりますので墓詣りに行ってきました。この日は日差しが強くひどい日であったので叔父の墓前でゆっくり思いをめぐらして祖母を感じ父を感じたいと思いましたがそうも参りませんでした。(向かって左が材木町 右が叔父叔母)8/14
上野千里先生のご供養・・・・                                                    3月31日は上野千里海軍中佐の御命日になりますので御霊にお悔やみ申しあげます。中佐は日本軍の占領地であったトラック諸島において米軍戦闘機が墜落して捕虜となった2名の重症を負ったパイロットに手術を施し救ってやったが、後日司令部からの命令で捕虜を殺せとの指示が出たところ命令を無視して怪我人を生かして養生させておいたところ米軍による次期再度の奇襲攻撃のためのどさくさ紛れにかくまっていた怪我人は何者かに殺されてしまっていた..そしてまもなく日本が終戦を迎え戦った兵隊さんたちは親や子供の待つ故郷へ帰りしあわせにひたることができましたが、これはにわかの幸せで米軍CIAはBC級戦犯を探し出す作業をしておりました。とりもなおさず親の手伝いをしていた上野先生のお宅にもMPが突然訪れ、捕虜虐殺の容疑で収監所のあるグアム島に強制収監されてしまいました。誰にたのんでも弁護してくれる人はどこにもいません。しかし上野中佐は気が付いたのです。千万無量の悲しみの中で、たとえ無罪を勝ち取ってもこの仕組みのなかでは誰かが同じ苦しみしなければならないのだ。ここは黙って刑を受けいれよう。そう思って昭和24年3月31日絞首台の露と消えていきました。上野先生の遺稿となった詩「みんなに」の詩をここにお借りいたします。    悲しみのつきぬところにこそ   かすかな喜びの芽生えの声がある  熱い涙のその球にこそ   あの虹の七色は映え宿る。   人の世の苦しみに泣いたおかげで  人の世の楽しみにも心から笑える   打たれ踏まれて唇を噛んだおかげでうまれてきたことの尊さがしみじみわかる。  合掌  3月31日 たかし
矢板市長峰公園ニテ上野中佐の記念碑

彼岸の入りにさいしまして 今日が彼岸の入りということで中山両家のお墓参りをいたしてきました。以前に記しましたが、永平寺14世の建ぜい和尚の著わした道元禅師の伝記によると、建長5年(1253年)8月5日に高辻西洞院にあった俗弟子覚念の私宅に落ち着いて病気の療養をし、8月28日の夜半に54歳の生涯を閉じたとのことであります。この時禅師は法華経第21章「如来神力品」の1節を唱えながら歩く「経行(きんひん)」をされていたそうです。                                                                                たかし3/17
第21章如来神力品について;まさに知るべし、この処すなわちこれ道場なり。諸仏ここにおいて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて初涅槃したもう。※※法華経はどんなところでも、仏様の道場だと教えております。どんなところでも、そこは、仏さまがさとられ、教えを説かれ、涅槃に入られたところだ、と教えております。どんな小さなところ、どんな狭い部屋、どんな喧騒をきわめたところでも、そこは道場なのだ。そう思えば酒を飲んでも、歌を歌っても、思わず力が入るのです。***塔の建立について 平成3年(1991年)母の葬儀にあたり墓標を建立しましたところ最初から和風の縦長の墓標より洋風の横長の墓標と決めておりましたので、それを建立しましたところ私の帰依している日蓮正宗ではご住職はご供養していただけないと石材店に言われて直接西澤ご住職に直談判をさせていただきました。母が亡くなってすぐに私は慌てふためいてすぐさま曹洞宗の松峰山桂淋寺に電話をしたところご住職は母が日蓮正宗をやっていることをご存知のようで私が行っては、お母さまはうかばれないのではないかと思いますとかるくお断りいただいたことがありました。そこで西澤ご住職との直談判に戻りますが、ご住職がおっしゃるには、いますぐでなくともよいが、後ほどおりを見て石塔を建てていただきそこに妙法蓮華経の5文字を刻んでご供養していただければよろしいですと承諾を得たわけです。そして30年後に石塔を建立することになりました。そして2023年私が心臓の手術で入院しているときに昭和20年8月9日に満州で亡くなった兄を思い浮かべ深くご供養することにいたしました。当時学徒出陣20歳     3/18

中山家彼岸の入りお参り

能登半島大震災の件
今日は2月1日です。ひと月前の1月1日の元旦の16時10分ごろ石川県能登地方で大震災が発生して大変な被害がでてしまいました。私事にになりますが、昨年は5月に心臓の大動脈解離という症状を発生したため手術は成功しましたがいろいろ不安がありますので行動範囲が制限されて思うように動けずに賀状の返信なども出来ず大きく不義理をしてしまい、大変申し訳ありませんでした。亡くなられた方には心からお悔み申し上げます。怪我をされた方の一日も早い完治と家屋を被災した方々の一日も早い復興と街の繁栄をお祈り申し上げます。たかし2/1
終活年賀状のご案内;高齢により来年からは年賀の挨拶をご辞退させていただきます。いままではありがとうございました。今後も皆様のご多幸を御祈願いたしております。 中山たかし

今思い起こしますと40年ほど昔にになりますが、
スバルの研修で全国で伊豆にに集まっったことがあったが、その時は妙に滋賀スバルの彦根営業所の所長さんと意気があったものでした初めての出会いにも拘わらずです。しかも当時は近江商人などの認識は持たずにでした。童門冬二の「近江商人魂」を読んだのは定年後でした。その時は自分自身に矜持をもったものでしたが、若いころに読んでいたかったものだと後悔したものでした。琵琶湖の南方に日野村という集落がありますが、そこには木地師や塗師が存在し日野椀の生産地のようでした。16世紀前半には畳表や蚊帳などが生産されて、日野商人たちにより全国に広められました。最近近江商人に関する本で、中野正堂著の「寺子屋」という本が手にはいったので楽しみにしています。     12/1
2023年11月30日
日野屋の成り立ち                                                                  日野屋の先祖は慶長3年(1598年)宇都宮城主になった蒲生秀行が会津城から移封して来た時に付いてきた先代城主蒲生氏郷から引き継いだ慣例に従って移住してきた近江の商人たちであると思われます。外部の文献で調べればネットの環境が昨今ではよくできているので簡単に手に入れることができます。近江商人の思想にある「三方よし」の原理などは今にこそ取り入れるべきものであるとつくづく感じます。昔、定年で退職してからネットオークション代行業務していたころ毎日自転車で市街地に通っておりましたが、林の中を通る通勤路に大きな中古車センターが出来てしまい林の中を「ハグロトンボ」の自生地があってそこにあった小さな小川もろとも土管の中に埋め立ててしまったようでした。待合室やお客様商談コーナーにそこをガラス張りにして待っている間に昆虫の生体を観察が出来るという絶好のチャンスを人々は見逃してしまったようです。売り上げ目標、粗利目標、市場原理主義などという言葉に囚われ、生物多様性を護るという生きていく上に最も大切なことを忘れ去ってしまったようです。その中古車センターが今、世の中を騒がせている『Bモーター』でした。「三方よし」の思想を心のどこかに留めておいてくれたならとつくづく思うこの頃です。・・・9/7  たかし

宇都宮藩に多大な貢献をした蒲生君平墓